カシスソーダ

 

「はい、お待たせしました、梅原不動産でございます。」


「高橋君この書類を20部コピー頼みたいんだけど」


「綾瀬君、この書類だけどページ番号が違うから直しておくように」


 電話のコール音や会話が絶え間ないオフィスで、一人の男がディスプレイとにらめっこしていた。彼の名は新島俊哉。この梅原不動産の、第三営業課の社員だ。
三年前にこの梅原不動産に入社し、以来この第三営業課で日々業務している。キーボードを叩き、書類の作成が終わったところで席を立ちあがると、一人の男性が近づいてきた。


「新島君、少しいいかい?」


「寺田課長、どうされました?」


新島から課長と呼ばれた初老の男性――寺田はひとつ咳払いし、話し始める。


「いや、今週末に予定しているオープンハウスの件だけどね?進捗はどうなっているかと・・・ホラ、現場担当者との打ち合わせをしている様子も無いからどうしたのかなと気になってね」


ああ、それでしたら、と新島は手帳を取り出し説明する。


「・・・多少の変更は生じたものの、ほぼ予定通りに着工していますので当日は万全のコンディションで迎えることができるかと」


一通り説明を終えると寺田はううむ、と短くうなるような声を出した後、口を開く。

 

 

「・・・ちなみにそれは、現場と打ち合わせをしてそう決まった、という事かな?」

 

「いえ、電話でのやりとりですが・・・何かあれば連絡が来ますし、開催日まであまり時間もありませんから向こう側もピリピリしているでしょう、そこに会社の人間が現場に来ても・・・」


と新島が言い終わるというところで寺田が少し焦りながら口を開く。


「いやいや、だからこそ現場に顔を出すんだろう。実際に足を運ばないと見えてこないことだってある・・・期日も近いんだから、もう一度現場に足を運んだほうが良いんじゃないかなぁ」


そうですか・・・と新島は少々、思考を巡らせる。


「・・・わかりました、万が一という事もありますからこれから現場に電話して視察します」


「うん、そうしてもらえるかい?簡単にでいいから」


よろしくね、と寺田は離れていった。
(面倒だな・・・だいたい三日前に現場に足を運んだばかりだし、何かあっても電話で対処できるんだから頻繁に顔出す必要なんかないだろうに)
漏れ出しそうな溜息を抑えつつ、受話器に手をかけた。

 元々、新島は営業ではなく事務職を希望していた。それ以前に新島は、あまり他人と関ろうとする性格ではなかった。

大学を卒業し、梅原不動産に就職したがそれはその会社が事務職を募集していたからであったのだが入社してみると配属された部署は営業。なんでも3月に営業部に所属していた社員が急に会社をやめたらしく、営業部の第三営業課に配属になってしまったのだ。
梅原不動産は一年ごと、希望制で部署異動できるので新島は二度ほど異動願いを出しているのだがなかなかお呼びがかからず、今も第三営業課で勤務している。

 転職も考えてはいたが三年前は就職難という事もあり、部署異動に掛けるほか無かったのだ。

 

「はい・・・はい・・・それでは2時に到着しますのでよろしくお願いいたします・・・はい・・・失礼します」

 

新島は電話を切ると、手早く支度を済ませてオフィスを出た。

 

          *      *      *

 

 午後7時、新島は仕事を終えて、電車で自宅アパートの最寄り駅に向かっていた。彼が住んでいるアパートは梅原不動産がある駅から電車で45分で到着する駅にある。大学に入学した時から住み始めてもう七年目だが通勤しやすい為、引っ越しを考えた事がない。

現場に赴き、担当者との打ち合わせをしたが結局、決定しているスケジュールの確認と簡単な視察とイベントのために雇ったアルバイト達との顔合わせを済ませるだけであった。帰りの電車の中、新島は一人、物思いに耽っていた。

 

(転職、しようかなぁ・・・三年前よりかマシになってきたって聞くし)

 窓から見える高層ビルの明かりが、夜の都内を照らしていた。しばらくして、電車は新島が降りる駅に停車した。重い足取りで改札をくぐり、階段を下りた先に、駅前の広場のベンチに座っている紫色の猫が新島の目に映った。

珍しい色をしているな、と思っていると新島はその猫が持つ金色の瞳に吸い寄せられるかのように見つめていた。

次の瞬間、紫の猫はベンチから飛び降りると新島を見て短く鳴いて、夜道を歩きだした。まるで、ついてこいと言わんばかりに・・・

 

          *      *      *

 

 紫の猫を追いかけると、一軒のバーが在った。猫はそのドアの隙間に入り込んでしまう。その店の名前はBar.Amethyst、紫水晶という意味だがその建物に紫色をしている箇所はどこにもないなと新島はふと思ったのも束の間、首を傾げた。

 

「こんなところにバーなんかあったか・・・?」

 

 新島が住んでいる町は駅の近くに飲み屋が数軒並んでいる通りがあるのだがそれとは全く逆の方向である、しかも周りは住宅街なのだがこの時間は人通りが少ないのだ。

最近できたのか、と考えていると次の瞬間、バーの扉が開き中から女性が出てきた。

 年は二十代後半から三十代前半だろうか、濃い紫のワンピースを着た黒檀のような色髪を、肩の下辺りまで伸ばした女性だった。前髪が女性の片目を隠すように伸びていて、整った顔立ちをしている・・・その姿から落ち着きのある、がどこかミステリアスな雰囲気を持っていた。

 

「アラ、お客さん?今お店を開くところだったの」

 

あまりの美しさに見とれていた新島はハッと我に返った。

 

「ふぁ!?す、すいません・・・猫を追いかけていて、その・・・」

 

女性に声をかけられ、あたふたする新島、彼は初心ではない。学生時代ーー高校と大学で、何人か女性と交際していた事もあったがそれとは比較にならない程美しい女性と話すことなど無かったのだ。

そんな新島を見て女性はクスッと笑うとドアに掛けてあったClosedの看板を反転させ、Openの文字が書かれた面を表にした。

 

「もしよかったら入っていかない?サービスするわよ」

 

新島は一瞬戸惑ったがこのまま帰宅したところで酒を飲むことに変わりはないと思い、店の中に入った。

 店内はシンプルな内装だった。紫色の少し高めの椅子が7つ横に並んでおりカウンターの奥には数多の種類の酒の瓶が棚に仕舞われている。女性に案内され、椅子に座った新島は辺りを見回すと店の至る所に猫の絵が飾られている。

 

「さて、何にします?ビールもありますけど」

 

そう聞かれた新島だったが自宅の冷蔵庫にビールが入っているのでビール以外にしよう、と思ったがウイスキーなんて強い酒など飲めない新島はカシス・ソーダを頼んだ。

女性はタンブラーに入ったリキュールをグラスに少量注ぎ、氷を入れるとカウンターの下の冷蔵庫から炭酸水を取り出し、グラスに注ぐ。

 

「レモンはどうします?」

 

そう聞かれた新島はただ、あ、はいと頷くだけだった。レモン、お好きなのね。と言うと女性はまた冷蔵庫からスライスしたレモンを取り出す。

 

「私も好きよ、レモン。お酒に入れて飲むと口当たりが爽やかになるんだけど、どこか懐かしい気分になるの・・・」

 

そう言って女性は、カウンターに酒の入ったグラスとチーズの乗った小皿を置いた。

 

「お待たせしました、カシス・ソーダです。このチーズはお通しだけど、お代は発生しないから安心して頂戴」

 

お通し代は発生しなくともチャージ料金は別なんだろうなと思った新島だったが口には出さず目の前のグラスに口を付けた。口に広がる炭酸の刺激の後、さわやかなレモンの香りが口いっぱいに広がった。

普段、職場の飲み会で行くようなチェーン店のカシス・ソーダみたく、全くレモンの香りがしなかったり逆にレモンの香りが主張し過ぎている物しか飲んだことのない新島にとって『美味い』と感じるものであった。

 

(やっぱりチェーン店のカシス・ソーダとは違うな。そもそもバーと比べちゃいけないんだろうけど)

 

おかわりを頼み、二杯目を飲んでいると女性が口を開いた。

 

「そういえば外で出会った時、なんだか憂えた目をしていたわ・・・お客さん、何かあったんじゃなくて?」

 

女性の言葉にどきり、とした新島だったが少し悩んで今の自分のこと、仕事が楽しくないこと、自分の思っていることと上司の考え方が古臭くて理解できないこと、転職しようか悩んでいること

酔いに任せて目の前にいる女性に話したのだ。

 

「・・・だから今,色々とツールが発達しているんだから時間掛けてまで現場に足を運ぶ必要性がわからないんですよね、そもそも事務職志望で、毎年異動願い出しても異動の辞令は来ないし」

 

そう言うと新島はチーズを一つつまみ、口に運び、咀嚼し飲み込んだ後に残りの酒をグイっと飲み干す、女性はグラスを下げた。

 

「あら、そうなの?・・・私はこのお店でずっと仕事しているから会社組織の事はよくわからないのだけれど・・・やりたい仕事ができない、なんて・・・大変よねぇ」

 

それでも続けてるなんて凄いわ、と女性が返し、一つのカクテルをテーブルに置いた。

新島は注文なんてしたっけ?と首を傾げた。

 

「サービスよ、私からのオゴリ。ねぇ、もし明日がほんの少し、普段の日常よりも楽しい事が起こると思ったら、それだけでワクワクしない?」

 

新島は、わからないと答えた。

 

「仕事していて『楽しい』と感じた事なんてないから、わからないですよ」

 

「うん、だからこのカクテルを出したの。これはカイピロスカ、意味は『明日への期待』」

 

「カイピロスカ・・・明日への期待・・・」

 

「その上司の方が言っていた事も、明日にはわかるようになるかもしれない、何か素敵なことが起きるかもしれないじゃない?」

 

新島はそのカクテルを飲みながら、女性の話を聞いていた。

 

「自分から歩み寄らないと、見えてこないものだってあるわ。」

 

何故か、新島の胸にその言葉が響いた・・・

 

           *      *      *

  

  目覚ましの電子アラームが鳴り響き、新島はゆっくり起き上がり、アラームを止めた。眠い目を擦り、昨日の事を思い出そうとしたが、女性が発してた言葉以外は記憶がおぼろげでハッキリと思い出せないでいた。

時計を確認した新島は部屋着を脱ぎ、ワイシャツをひったくり着替え始める。自宅を出て徒歩10分、駅前のコンビニで朝食を購入し改札をくぐっていった。

 

           *      *      * 

 

 あれから二日経った。新島は、鞄に退職願を入れ、出社していた。

今日退職願を出して受理されて退職までの間に次の職場を探そうと考えていた。メールチェック中、あの時の女性の言葉がふいに浮かんだ。

 

『何か素敵なことが起きるかもしれないじゃない?』

 

メールチェックを終えた新島は、当日の最終確認のためにオフィスを出た。

 

           *      *      *

 

「それでは、明日のオープンハウスに向けての確認を終わります、明日は頑張りましょう」

 

 新島は書類を整え、会議終了の号令をかけた。窓の外は青空に橙がかかろうとしていた。

新島さん、ありがとうございます。また明日、よろしくお願いします。と現場スタッフ達が頭を下げ、会議室を出て行く。新島も帰社しようとしたその時だった。

新島を呼び止めた現場責任者は深く頭を下げてこう述べた。

 

「新島さん、今回の度重なる視察と献身的なご指導、本当に有難うございました。実を言うと本社からの人間は、昔はよく顔を出してくれた方が多かったのですがここ数年はあまり現場には顔も出さない、連絡も取れない、現場の事を把握しないでいるような人間ばかりだったんです。最初は新島さんの事も同じ目で見ていたのですが、今までの方とは全く違うんだなと、今更ですがそう感じたんです」

 

その現場責任者の言葉に、新島は戸惑いを隠せなかった。今までそんな事を言われた事もなかったのだ。

 

「新島さん、私は貴方と仕事することが出来て嬉しく思っております。新島さんがこの場に足を運んでくれたからこそ、ここまでやってこれたんです」

 

そう言って男は、新島の手を取り、固く握手をした。

 

「明日、貴方とここで仕事ができる最後の日です、どうか最後までよろしくお願いします」

 

新島は、胸の奥底から熱いものがこみ上げてきた

その様子を、窓の外から一匹の猫が見つめていた。

 

 

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や・・・やっと終わった・・・

急ピッチで仕上げたから色々ごちゃごちゃです、ごめんなさい

 

不動産会社で働いた事ないから全くイメージがわかなかったんですよね・・・次回からはもう少しイメージしやすいものを題材にしようかと思ってます。

 

それではこれから死んだように寝ます、おやすみなさい